自分を責めずに、心を軽くする考え方


昔からある、心の見つめ方

私は天理教の教えに身を置く者ですが、
この教えに触れて、
とても救われた考え方があります。

それは、
人の心を「正しい・間違い」で裁くのではなく、
どんな向きで使われているかを見つめるという視点です。

心がうまくいかないとき、
私たちはつい
「自分の性格が悪いのではないか」
「能力が足りないのではないか」
と考えてしまいます。

けれど、そうではなく、
心が少し自分の方へ寄りすぎているだけ
──そんな場合も少なくありません。


心にも「埃がつく」というたとえ

天理教では、
知らないうちに偏っていく心の状態を
「埃(ほこり)」にたとえます。

埃がつく原因は、
特別な悪意ではありません。

「自分が損をしたくない」
「自分だけは分かってほしい」
「できれば楽をしたい」

誰の中にもある、
ごく自然な思いです。

けれど、
心がその向きだけで使われ続けると、
少しずつ視野が狭くなり、
息苦しさが生まれてきます。

窓辺のひととき

心が軽くなる向き

私自身が学び、実感してきたのは、
心が楽になるのは
「自分を優先すること」よりも、
与えられているものに目を向けたときだということです。

生きていること。
今日も息ができていること。
誰かに助けられてきたこと。

そして、
誰かに喜んでもらえたとき、
誰かの役に立てたと感じたとき。

その瞬間、
不思議と心は外へ開き、
重さが和らいでいきます。


利他という、無理のない生き方

立派な人になろうとする必要はありません。
自己犠牲になる必要もありません。

ほんの少し、
「誰かが楽になる方へ」
心の向きを置いてみる。

それだけで、
心についた埃は、
少しずつ落ちていくように、私は感じています。

一度ついたからといって、
心がだめになるわけではありません。

気づいたときに、
また向きを整せばいい。

私はこの考え方に、
とても大きな安心感を覚えました。

会長プロフィール

担当者の永島です。担当者の永島です。
言葉にならない思いを抱えたまま、ここまで読んでくださりありがとうございます。
すぐに答えが出なくても大丈夫です。
もし、誰かに少し話してみようと思えた時は、静かにお話をお聴きします。