食べることが出来る幸せ

私たちは毎日、
当たり前のように食事をしています。

お腹が空けば食べる。
喉が渇けば水を飲む。

けれど、
少し立ち止まって考えてみると、
それは本当に当たり前のことなのでしょうか。

世の中には、
食べ物があっても食べられない人がいます。

病気で食べることができない人。
水さえ飲み込むことができない人。

そういう方々もおられます。

そう思うと、
食べることができるということは、
本当はとてもありがたいことではないかと思うのです。


水を飲めば、水の味がする

天理教の教祖である
中山みき
は、かつて大変貧しい生活の中で、
子供たちと暮らしておられました。

食べるものがなく、
一粒のお米さえない時もありました。

そんな時、教祖は子供たちにこう言われたそうです。

「世界には、枕元に食物を山ほど積んでも、
食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて
苦しんでいる人もある。

そのことを思えば、
わしらは結構や。

水を飲めば水の味がする。
親神様が結構にお与えくだされてある。」

この言葉には、
とても深い意味があると思います。

食事は美味しい

私たちの身体は、借りているもの

天理教では、
この身体は自分のものではなく、

親神様から貸していただいているもの

と教えられています。

目が見えること
耳が聞こえること
歩けること
食べられること

それはすべて、
親神様からお借りしている働きです。

普段はあまり意識しませんが、
どれか一つでも失われてしまったら、
その大切さに気づくのではないでしょうか。


当たり前の中にある幸せ

私自身も、
この教えに触れてから、
物の見方が少し変わりました。

食事をする時、
「今日も食べられる」

水を飲む時、
「水の味がする」

そんな当たり前のことに、
ありがたさを感じるようになりました。

すると、
不思議と心が穏やかになるのです。


今日も生きているということ

私たちは、
つい足りないものに目を向けてしまいます。

もっとお金があれば
もっと成功すれば
もっと恵まれれば

そう思うこともあるでしょう。

けれど、
今日も生きていて、
食べることができて、
水の味がわかる。

それだけでも、
本当はとても尊いことなのかもしれません。

会長プロフィール

担当者の永島です。担当者の永島です。
言葉にならない思いを抱えたまま、ここまで読んでくださりありがとうございます。
すぐに答えが出なくても大丈夫です。
もし、誰かに少し話してみようと思えた時は、静かにお話をお聴きします。